料理

大量にジャガイモを戴いた。早く食べないと芽が出てしまう。袋を覗いてみると、もう芽が出かかっている。毎日いろんな料理にジャガイモは登場するが、それでも間に合わないくらいである。そこでおやつ代わりにジャガイモを食べている。ラップに包んで電子レンジで加熱すること10分。皮を剝き塩やバターで食べると格別美味い。ジャガイモの新芽は春が近いことを教えているのだ。

先日、福岡のパン工房で珍しいパンを見つけた。店のオーナーによるとフライパンで焼くと香ばしくて美味しいというのである。なるほどいろんなパン食べ方があるものだと感心したものである。今日の乾燥機の議論では、干し柿製造時に出る剥き皮を乾燥・粉砕して新しい食材を提供してはと提案した。その時、私は、柿の皮の乾燥・粉砕後に篩で篩別し、篩下を製品としていたが、逆に篩上の荒っぽいフレーク状のものを先ほどのパン生地に練り込んではと思ったのである。先ほどのパンは、いま流行の表ぱりぱり、中はモチモチといったものとは真逆で、あくまでもずっしりとしていて自己主張する存在感あるパンなのである。だから、その生地に歯応えのある柿の皮フレークを練り込めば、個性豊かなパンに仕上がるのではと思った次第である。

 今日は福島の友人宅を訪ねた。朝のうちに電話を入れて訪問させていただく時刻を決めて9時半には家を出発したが、常磐道から磐越道に入ったら今まで見たこともないような車の混雑ぶり。よくよく前方を見るとパトカー4台が併走していた。みんなそのパトカーを意識しすぎて追い越しができないため数珠つなぎになってしまったようだが、しばらく経つと車が少しずつばらけ始まった。私は、パトカーを追い抜くため追い越し車線からパトカーを見たところ京都府警という表示が目に入った。今回の震災で全国津々浦々から東北に向かって震災支援に来てくれているようだ。

 東北道に入ると今度は本格的な帰省渋滞。本宮から福島西インターまで断続的に12キロの渋滞という表示。私は高速を降りて国道4号線で福島を目指す選択肢も考えたが、車の速度計は40から60キロ近辺で推移していたので、渋滞していたとしても高速道路のほうが速いと判断してそのまま走行した。

 友人宅には予定よりも30分ほど遅れてしまったが、しばらくぶりの訪問で話の花が咲いた。帰り際に手作りのパンを頂いたが、帰宅後一仕事してパンをオーブンで焼いたところずっしりとした重さとは裏腹にさらっとした軽やかな食感にただただ感心するばかりであった。私は友人に電話を入れた。「今まで食べたパンの中で最高の味でした。」と。

 先日、福島県田村市の生産業者から譲っていただいたニンニクは、福島県で2カ所しかないという県認定の有機農法農業生産法人だった。社長さんの話によると、ニンニクはとても甘みがありカツオの刺身の場合にはニンニクをおろし金ですり下ろしてニンニク醤油を作り、さらにスライスしたニンニクを刺身の上に載せてニンニク醤油で食べるととても美味しいとのことだった。
 しかし、話には聞いていてもなかなか時間が作れなかったが、そのチャンスがとうとうやってきた。気がついたのはスーパーが閉店間際の10時ちょっと前。私は、近くのスーパーまで車を走らせ生鮮食料品売り場に直行したが、肝心のカツオの刺身が見つからない。
よくよく目を凝らしてみると三枚に下ろした刺身用カツオが目に入った。私は、すかさず刺身用カツオをゲットし引き返して、カツオの刺身を堪能した。一口食べた瞬間、ニンニクの甘みが口の中を駆け抜けた。あまりの美味さについつい箸も進んでしまったが、カツオの刺身だけでは勿体ないのでご飯までたらふく食べてしまったところである。
 久しぶりのほんとうに久しぶりの正統派カツオの刺身であった。

 今日はモンゴルの友人を案内して福島県中通り方面に出かけた。昼食に「お寿司が食べたい」との希望だったが、あいにく付近にお寿司屋さんが見当たらず蕎麦屋で昼食を済ませた。帰宅後、家内が「夕食は何がよいか」と私に尋ねたので、「昼食にお寿司が食べられなかったので、回転寿司に行こう」ということで決まった。
 私は、所用を済ませ一足遅れて回転寿司店に向かい合流。そこでいろいろ話の花が咲いた。そして話題は「能力」について。仏教経典・妙法蓮華経薬草諭品第五の「三草二木の譬え」では、「人間にはそれぞれ持ち味があり例えば天から雨が降ったとしても、それぞれに受け止め方が違い結果として成長の度合いも違う」という立場をとっている。一方、記憶は定かではないが心理学かカウンセラーの分野では「人間の能力には、それほど差がない」という立場をとっていると聞いたことがある。
 このどちらが正しいかなどという愚論を展開するつもりはないが、人間の能力を「できる」「できない」という言葉で表現することがしばしばあるので、この「できる」「できない」とは何ぞやという議論になった。「できる」ということは「仕事やいろいろなことが、良くできる」ことを意味し、「できない」とはその反対の表現方法である。
 さらに議論は「できない」人の立場での話に展開していった。「できない」人は、しばしば「私は、能力がない、時間がない、学歴がない、お金がない、友人・知人など人脈がない、土地がない、家柄がない、人材がいない、健康でない等々、できない理由について熱心に説明しようとする。しかし、上述の条件が整わなかったら何もできないかというと、何もなくてもできる或いは成功した人たちにとっては、この説明は適切ではないと思うだろう。
 それでは「できる」「できない」を決定する何物かが存在するはずである。私が考える「できる」「できない」は、本人の意志がどちらを向いているかによって決定されるのではないかと推察している。「できる」人は、「どうしたらできるか、実現のための方策を考えるだろう」し、「できない」人は、何故できないのかその理由について考えるだろう。しかし、「何故できないか」という理由は、大体の場合、単なる言い訳に過ぎないのである。もっと分かりやすくいえば、自分がそれをやりたくないから巧妙にできない言い訳を並べ立てているに過ぎないのである。
 だから、このような人たちの中には「楽好み」が多分に含まれているに違いない。私は、しばしば人様のお手本となるべき人の中にも、このような思考方法を堅持している人が少なくないことに気づいている。もし、彼らが言葉の端々に微塵でもその魂胆が覗かせようものなら、私はすかさず「究極の楽好みな生き方は寝たきりですよ、今はよい薬があるのであなたがご希望ならすぐに寝たきりになれますよ」とお薦めしている。そして「寝たきりになれば、食事は流動食、便だって掻き出してもらえますよ」と付け加えるのである。
 従って、私の考える「できる」「できない」とは「やる気がある」「やる気がない」であり、思考習性によるところ大なのである。「楽」というと何もしないことが楽なように感じてしまうが、何もしなくても良い状態すなわち「誰からも存在が気づかれず、誰にも当てにされず、誰も相手にしてくれない」状態だったとしたらどうであろうか。私は、このような生き方がダメだとは一言も言っていない。人生を決めるのは、つねに本人の問題である。