できる、できない

 今日はモンゴルの友人を案内して福島県中通り方面に出かけた。昼食に「お寿司が食べたい」との希望だったが、あいにく付近にお寿司屋さんが見当たらず蕎麦屋で昼食を済ませた。帰宅後、家内が「夕食は何がよいか」と私に尋ねたので、「昼食にお寿司が食べられなかったので、回転寿司に行こう」ということで決まった。
 私は、所用を済ませ一足遅れて回転寿司店に向かい合流。そこでいろいろ話の花が咲いた。そして話題は「能力」について。仏教経典・妙法蓮華経薬草諭品第五の「三草二木の譬え」では、「人間にはそれぞれ持ち味があり例えば天から雨が降ったとしても、それぞれに受け止め方が違い結果として成長の度合いも違う」という立場をとっている。一方、記憶は定かではないが心理学かカウンセラーの分野では「人間の能力には、それほど差がない」という立場をとっていると聞いたことがある。
 このどちらが正しいかなどという愚論を展開するつもりはないが、人間の能力を「できる」「できない」という言葉で表現することがしばしばあるので、この「できる」「できない」とは何ぞやという議論になった。「できる」ということは「仕事やいろいろなことが、良くできる」ことを意味し、「できない」とはその反対の表現方法である。
 さらに議論は「できない」人の立場での話に展開していった。「できない」人は、しばしば「私は、能力がない、時間がない、学歴がない、お金がない、友人・知人など人脈がない、土地がない、家柄がない、人材がいない、健康でない等々、できない理由について熱心に説明しようとする。しかし、上述の条件が整わなかったら何もできないかというと、何もなくてもできる或いは成功した人たちにとっては、この説明は適切ではないと思うだろう。
 それでは「できる」「できない」を決定する何物かが存在するはずである。私が考える「できる」「できない」は、本人の意志がどちらを向いているかによって決定されるのではないかと推察している。「できる」人は、「どうしたらできるか、実現のための方策を考えるだろう」し、「できない」人は、何故できないのかその理由について考えるだろう。しかし、「何故できないか」という理由は、大体の場合、単なる言い訳に過ぎないのである。もっと分かりやすくいえば、自分がそれをやりたくないから巧妙にできない言い訳を並べ立てているに過ぎないのである。
 だから、このような人たちの中には「楽好み」が多分に含まれているに違いない。私は、しばしば人様のお手本となるべき人の中にも、このような思考方法を堅持している人が少なくないことに気づいている。もし、彼らが言葉の端々に微塵でもその魂胆が覗かせようものなら、私はすかさず「究極の楽好みな生き方は寝たきりですよ、今はよい薬があるのであなたがご希望ならすぐに寝たきりになれますよ」とお薦めしている。そして「寝たきりになれば、食事は流動食、便だって掻き出してもらえますよ」と付け加えるのである。
 従って、私の考える「できる」「できない」とは「やる気がある」「やる気がない」であり、思考習性によるところ大なのである。「楽」というと何もしないことが楽なように感じてしまうが、何もしなくても良い状態すなわち「誰からも存在が気づかれず、誰にも当てにされず、誰も相手にしてくれない」状態だったとしたらどうであろうか。私は、このような生き方がダメだとは一言も言っていない。人生を決めるのは、つねに本人の問題である。

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