2010年 3月 12日

 仏教では十如是という法則がある。十如是とは、相(そう:持ち前のすがた)・性(しょう:持ち前の性質)・体(たい:持ち前の体つき)・力(りき:持ち前のちから)・作(さ:持ち前のはたらき)・因(いん:持ち前の素質)・縁(えん:取り巻く環境や条件)・果(か:結果のこと)・報(ほう:喜びとか悲しみなどのむくい)・本末究竟等(ほんまつくきょうとう:本から末まで究めてみるとみな等しいものである)といい、またの名を諸法実相ともいう。
 私は48年間、人さまの体を指圧させていただいてきたが、指圧してきた体験と十如是の法則とはぴたっと符合していると感じざるを得ない。それを説明しきれるかどうかは甚だ疑問であるが、第一に、人にはそれぞれ異なる素質と生活条件があり、それらの組み合わせにより身の回りに起こる結果現象も無数に変化する。例えば、困難な状況を抱えていれば、それと向き合うか回避するか二つの選択肢が生まれる。もしそれと向き合うことを決意すれば、当事者はさまざまな負担を承知の上で日々の生活を送ることになろう。一言も口外せずただひたすらにその役目を果たすのみである。しかし、仏教の法則の一つである生老病死は誰もが渡る道であり、いかに固く決意しようとも心身にいろいろな形で痕跡を残すことは避けがたい現実である。多くの人はそれを抱えたまま老いを迎えることになるが、それでは人生あまりにも残酷というものである。
 ではどのようにすればこのような状況下に置かれた人が癒されるのか考える必要がある。私はその判断基準として次の三つを考えている。一つ目は、その人の置かれた状況を深く理解することであり、二つ目は、その人の目を見ることである。前にも申したように目は心の窓というが、まさにその通りで目を見ればその人がどのような眼差しで人生を歩んできたのか如実に表れている。三つ目は、その人の口を見ることである。これも申したようにこれまでの人生でどのような言葉を発したのか如実に表れているのである。だから、これらの要素を総合すると、必然的に対応方法は導き出されるのである。
 以上の方法により対応方法が決まれば、その後は実行あるのみ。心から労苦をねぎらい、身体各部に残る痕跡を癒すのみであるが、長年の痕跡が一朝一夕に解消できるはずがない。
丹念に丹念に祈りを込めて指であたり、探し当てた痕跡をこれまた丹念に溶かしていくしか方法はない。この溶かすという行為こそ癒す行為そのものであると確信する。

 夕べは唐津市の唐津第一ホテルリベールに宿泊した。今朝、朝食をとっていると、見るからに恰幅のよい紳士が入ってきた。声をかけるとお仕事は宗教家とのこと、教団の名前をお尋ねするとなんと私の所属する教団の親御さん或いはお兄さんに当たる教団である。
 その紳士は徳島市に拠点を構え、今回は佐賀県内のいくつかの教会を巡回して布教に努めているとのことである。従って、信者さんを前にして講話する教会長職が仕事ということである。たまたま私も徳島に友人が居るのでそのことを話してみると、場所についてはよく知っているとのこと。徳島とはまったくかけ離れているこの地で、共通の話題を話せること自体、奇跡である。
 話題になったのは宗教心について。いかにして家族に宗教心を継承してもらうかは、とても重要な親の責務の一つである。そのためにどのようなことが重要かを尋ねると、やはり親の姿が大切とのことである。私もまったく同感である。親が宗教心を継承して欲しいならば、日頃からどのように子供達と向き合うかが最も重要である。
 そのためには親孝行という言葉と同様に子孝行を実践しなければならない。私はこの子孝行という言葉が好きである。何故なら、子孝行するには子のことを十分に理解する必要があるからである。子を理解しようとするには、自分自身の価値観を捨て一心に耳を傾け理解に努めなければ、子を真に理解することは難しい。
 親が自分自身の経験を話始まったら、圧倒的に物量が多い親の話に力点が移ってしまうので、それでは子の話に耳を傾けることはできない。だから、自分の経験や価値観をすべてかなぐり捨て、心を白紙の状態にしてから聞くことが大事だと思う。自分のもっとも身近にある子供達と、心が通い合うことほど素晴らしいものはない。そのことは子孝行という言葉を遙かに超えた価値を感じている。